[竹久夢二 Story & Goods]
 
−大正浪漫−竹久夢二 Yumeji Takehisa
叙情と浪漫をたたえた夢二の絵は、時を超えて愛され続ける…

いわゆる「夢二式美人」と呼ばれる美人画で知られる竹久夢二。その愁いを帯びた表情と細身で優美な曲線を描く姿態。そして独特な色づかい…それはまさに大正浪漫の時代を生き、時代を創った夢二の世界です。

一時は中央画壇への憧れもあったようですが、あくまで夢二は大衆の人気に支えられた人でした。書籍の挿絵や装丁、浴衣などのデザインなど、今日のグラフィックデザイナーとしての才能をはじめ、詩や童話などの創作でも知られる多彩な才能を発揮した人でもあります。

今日でも多くのファンを魅了してやまない夢二の世界へ、ようこそ。

竹久夢二について Profile


竹久夢二 (たけひさ ゆめじ)
明治十七年〜昭和九年(1884〜1934)

岡山県の南東、邑(おく)郡本庄村に生まれる。本名竹久茂次郎。父・菊蔵は造り酒屋をいとなむ。現在、生家は夢二郷土美術館分館となっている。
子どもの頃より絵に魅かれた夢二は、神戸中学に進み、エキゾチシズムの洗礼をうける。しかし、父の事業欲により一家は九州に移住するも、夢二は家出をし上京、画家を志望する。父の反対で早稲田実業入学。キリスト教者や幸徳秋水ら社会学者と交わる。時に夢二十九歳。一方、生活のために絵ハガキ製作をはじめ、二十三歳の時、早稲田鶴巻町で絵ハガキ店を開いた未亡人、岸たまきと出蓬い、結ばれる。彼女をモデルとして“夢二式"美女を描き、人気作家となる。二年後に離婚。その後たまきと「港屋」を開店するが、画学生笠井彦乃との悲運の恋燃え上がる。
彦野は大正九年に病死。お葉、山田順子など女性遍歴は続く。大正十二年の大震災による受難期をくぐりぬけ、昭和六年に渡米。しかし、数回の個展を開くも成果を上げられず。続いてドイツ、イタリァなどを旅する。昭和八年、病で帰国。その後の台湾旅行の後、病状悪化。翌年、信州富士見高原療養所で永眠。諡名、竹久亭夢生楽園居士。雑司ヶ谷墓地の夢二の墓には、有島生馬の筆になる碑文「竹久夢二を埋む」が彫られている。

明治17年(1才) 9月16日

  32年(16才) 4月
  33年(17才) 2 月
  34年(18才) 7 月
  35年(19才) 9 月
  38年(22才)


  40年(24才) 1 月
  42年(26才) 5 月


大正元年(29才) 11月
  3年(31才) 10月

  5年(33才) 4月

  6年(34才) 2月

  7年(35才) 1月

  9年(37才) 1月

  10年(38才) 7月
  12年(40才) 9月

  13年(41才)




昭和6年(48才)

  7年(49才) 9月
  8年(50才) 9月

  9年(51才) 9月3
岡山県邑久郡本庄村に生まれる。本名は茂次郎。
家業は造り酒屋。
神戸中学校に入学。12月、家事都合により中退。帰郷。
一家で福岡へ転居。
家出して上京。苦学。
早稲田実業学校に入学。
「中学世界」にコマ絵「筒井筒」が1等入選し、
初めて「夢二」と署名する。
早稲田実業学校専攻科を中退。
岸たまきと結婚。4月読売新聞社入社。
時事スケッチを掲載する。
岸たまきと協議離婚。12月最初の著書
「夢二画集 春の巻」発刊。以後多くの出版に着手。
京都府立図書館において、第1回夢二作品展覧会開催。
日本橋呉服町に「港屋」開店。笠井彦乃と知り合い、
後に結ばれる。
初めてセノオ楽譜を装幀する。以後、270余のセノオ
楽譜の装幀をする。
京都清水二年坂に転居。夏、彦乃と共に金沢市湯涌温泉
に旅行。
京都府立図書館で第2回夢二叙情画展覧会開催。
9月「宵待草」が出版され、全国に流布。
彦乃、お茶の水順天堂医院にて永眠。春、
「長崎十二景」完成。
モデルのお葉と渋谷に所帯を持つ。冬「女十題」完成。
関東大震災。これにより恩地孝四郎らと共に
企画した「どんたく図案社」は現実寸前に潰滅。
「婦人グラフ」に表紙や口絵の掲載をはじめる。
昭和2年まで続く。
当時の夢二人気にあやかって、これらの雑誌は
飛ぶように売れた。
12月松沢村にアトリエ付新居「少年山荘」完成。転居。
榛名山美術研究所建設の準備を進める。外遊を決意する。
5月アメリカに向かう。
アメリカより渡欧。欧州各地を歩く。
神戸に帰港。11月台湾に行くが、体調を悪化させ
帰国、病臥。
長野県の富士見高原療養所で「ありがとう」を最後の
言葉に永眠。雑司ヶ谷墓地に埋葬。





夢二写真館 Photograph

夢二は、大正時代にいち早く、当時流行していたコダック社製小型カメラ(通称”ベス単”)を手に入れ熱心に写真を撮り続けました。現在残されている写真だけでも2600枚を超えており、当時としては異例の枚数だといえます。また、その写真も”夢二式”な構図のものが多く、まさに、絵筆をカメラに持ち換えた感のある、貴重な資料となっています。

カメラを持つ夢二  お葉        ベッドと人形       お葉か?       三味線とたまき
髪をすく彦乃 家の前に立つお葉 後姿のお葉

夢二の人生を彩った女性たち

●岸たまき(明治15年〜昭和20年)
金沢生まれ。
日本画家堀内喜一と結婚するが、夫が33歳で急死したため、東京で絵はがき屋「つるや」を開く。開店後まもなく夢二と出会い結婚。2年たらずで離婚することになるが、離婚後も生活を共にして3人の子供をもうける。
眼の大きな女性で、夢二式美人画の原型となった女性である。
(女性との関係も華やかな夢二ではあるが、正式に結婚したのは彼女だけである。)
●笠井彦乃(明治29年〜大正9年)
紙問屋の長女として日本橋に生まれる。
大正3年、同じく日本橋に開店した「港屋」で夢二に出会い恋に落ちる。(当時18歳)
夢二との交際を激しく父に反対されるが、京都において、二人は幸せな時期を過ごす。 しかしそれもつかの間で、彦乃は病(肺結核)を得、25歳と言う若さでこの世を去る。11歳年下であった彼女こそ、夢二がその生涯で最も愛した女性といわれている。
●お葉(明治37年〜昭和55年)
本名は佐々木カネヨ。
秋田県生まれ。
12歳の頃より、画家のモデルを始める。後に近代洋画の巨匠、藤島武二や責め絵画家、伊藤晴雨のモデルもつとめるようになるが、大正8年、夢二と出会い共に暮らすようになる。代表作「黒船屋」を始め、夢二式美人画の源泉となる。
6年後には夢二と別れることになるが、晩年は医師と結婚し、主婦として静かな生活を送った。
(お葉は夢二がつけた愛称)
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「文化・芸術の街、文京区散策」に竹久夢二美術館などの案内があります。


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